第十話 浦上四番崩れ(明治維新)

第10話 浦上四番崩れ(明治維新)

2002年5月15日記

毛利輝元公は1605年(慶長十年)キリシタン取締令に従い、山口の大道寺を没収し佐世元嘉に与え7月2日には重臣であった熊谷元直、天野元信、中原善兵衛、三輪八郎兵衛等キリシタン信徒である理由で一門百余人を斬首刑にした。いわゆる「御討果し」である。その他1607年には狩野平右衛門、第与五郎を火あぶれの刑にした。その後、1614年には見島に15人流刑、大屋に於いては8人火刑、1632年には明木の仁左衛門、ポーロ木村を処刑した。このような拷問、処刑は身もよだつもので「火あぶり」はその最たるもので、これを藩として行ったのは最初である。現在四番崩れの殉教地にビリオン神父により石碑が建てられている。その他「水攻め」「はりつけ」「逆さづり」「斬首」となっていたのである。

このような背景を経て萩藩は明治維新という名のもとで意気旺盛の時でもあり、一揆が各地で相次いで起き、その度毎に指導者は処刑されたのである。
また山口県、豊浦県、清末県、岩国県を廃止し、一つの山口県にして権力統率に変わっていったのである。

明治6年(1873年2月)キリスト教解禁となったものの、とりわけ人別帳ひとつとってみても特に邪教信徒の有無が第一条件として厳しく苦役につぐ苦役、重犯につぐ重犯を強いた政策を続けたのである。今も残っている女台場も「武士の妻」と賛えるかのように歌われているが、この苦役は一体誰かと思わざるを得ない。「萩の乱」における前原一誠の挙兵もその一つと思われる。なぜなら墓前の側にキリシタン灯篭が一基在る。しかし恵みもあった。萩は三角州であり、周りは阿武川、中央は新堀川、つまり水とともに栄え清き流れの恵みに生きた人情味ある土地柄、その人達によって憂いも慰められたことも事実である。このような背景のなか四番崩れの兄弟姉妹は信仰の自由を勝ち取ったのである。
「 わたしが来たのは地上に火を投じるためである。」 (ルカ12:49)