第六話 浦上四番崩れ(第二陣流配)

第6話 浦上四番崩れ(第二陣流配)

2001年12月15日記   

1869(明治二年)6月26日「天主教を殴るの議」という議案が公議に上程したところ集議院(立法機関)で「死罪はおこなわず改宗をすすめる」ということにあらため以前にも増して同年10月に強行推進の大検挙となり、浦上キリシタン3,434人を逮捕し、当萩藩には統計によると298人となっているが(福岡藩に預け中6人、船中5人計11人病死、出生3人)萩藩の記録によれば、226人(男92人、女子供134人)となっている。この長崎の統計と萩の記録の差があるのはどうしてか、今もって分からないが、かといってその後これを整理した記録はない。ただいえることは、第二陣の配流者は大部分が第一配流者の身内であったため、子供、老人が多かったのである。

1870年(明治三年)一月長崎出港の時、当萩教会初代のビリオン神父が見送られ、後年萩の地を訪ねられ、教会を建てられたのである。

後年ビリオン神父は明治三年の時のことを語られるとき「自分も二か月間監禁されていたが、役人が案内もなく堂に入り恐い顔をして睨みながら理由もいわず手を取り縛ろうとしたが、頭らしい武士が「西洋人には縄をかけるな」といったので縛られず不自由な座敷牢での生活の身となった。見送る話しになると天を仰いで嘆息し涙を浮かべ身を正して、今でもその時の有様が浮かんでくると語っておられた。一艘一艘、港外に姿が見えなくなって、腹の底から深い悲しみに耐えられず、声を出して泣いたものです、と涙を浮かべて語っておられた記録がある。

数日の航海を経て一月十二日博多に着き、萩藩は丁度そのごろ、会津征伐のため藩が混雑していたため約三ヶ月間滞留することになった。

春も近づく四月二十一日、七艘の和船で一同を乗せ、長州萩へと漕ぎ出で途中、彦島、特牛に立ち寄り病死者を葬り、玄海の荒海に生きた心地なく四月二十八日、萩鶴江台下の港に着いたのである。岩壁には多くの人々が手を振り近付いてくる、よく見るとそれは三年前に萩に送られた兄弟姉妹であった。その喜びはひとしおのものがあったにちがいない。つのる思い、苦しみを忘れて語り合いたがったであろうが、藩役人はそのありさまをみてここには上陸させず、無情にも小船に移し小川(いまの新堀川)を逆上り城下の西の端の海辺に漕ぎ行かせた。そこが岩国屋敷である。そこには改宗強行の茨の道が待っていたのである。

「シモン、シモン、サタンは、あなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた、しかしわたしは、あなたのために信仰が無くならないように祈った。だからあなたは立ち直ったら兄弟達を力づけてやりなさい」と。ルカによる福音22章31−32

参考文献
毛利家文書・長門公教史・萩市史・露草キリシタン史跡研究会

次回は博多滞留三ヶ月間の鍛錬、萩における拷問について