第二話 萩・山口の殉教

第2話 山口の殉教者
中央協 『愛の証。ペトロ岐部と187殉教者』より

「愛の証。ペトロ岐部と一八七殉教者」より

ザビエルが育てた山口の教会は、一六〇五年、二人の秀れた殉教者を準備した。メルキオール熊谷豊前守元直は名高い熊谷直美の子孫で、毛利輝元の最有力家臣の一人であった。ダミアンは境に生まれ、目の光を失っていて貧しく、路上で琵琶を弾きながら旅をし、山口に着くとそこに住み着いてしまった。熊谷は、一五八六年、九州征伐の時に黒田孝高の勧めで信者となり、最初、信仰については深い知識がなく熱心ではなかったが、一六〇〇年の関ヶ原合戦後、主君に従って安芸の三人の高松城を後にし毛利輝元とともに山口に行った。そこでは圧迫されている教会の状況のなかで新たに進行の道を見いだし、教会に対する自らの責任を感じた。以来、信者の保護者となった。自分の知行に小さな教会を建て、毛利輝元に相対して公然と信者として行動していた。

ダミアンも山口でキリストに出会い、洗礼を受けた。そこで結婚して、貧しいながら次第に牧者なき教会の信者の伝道士となった。ザビエルによって洗礼を受けた有名なロレンソのように目が不自由であっても、心は神によって輝いていた。熊谷もダミアンもその教会のためにすべてを捧げた。

一六〇四年、萩城の築城完成の際に熊谷は大名に従って萩に移り、ダミアンは山口に留まった.教会の崩壊を望んでいた輝元はこの二人のリーダーがいる限り自らの目的を果たせないことを知り、他の理由をもうけて二人の処刑を決めた。一六〇五年八月十六日の夜明け頃に熊谷は秋の屋敷で、一九日真夜中にダミアンは山口の一本松の刑場で斬首されて殉教者となった。熊谷は手に縄目をうけて、屋敷を包囲していた役人に向かって自分を大名の前に引き出すよう願った。「この武士はよくイエスの御受難を黙想する人であった」と宣教師たちは殉教の記録に説明している。

ダミアンはその夜、毛利の役人から用事があるので湯田まで同行するようにと言われて道に出たが、途中でダミアンは馬を止め、「これは湯田への道ではない。処刑場である。」と言い、驚いた役人にむかって、「私にとって道は夜でも明るい」と喜々として説明した。馬から下りるとひざまづき、祈りながら殺されるのを待った。この視力を失った人の道は確かに光の道であった。

萩の教会の墓地にはビリオン神父によって建てられた熊谷の碑があり、ダミアンの首は、それを見付けた信者たちが長崎に送り、一六一四年、そこから宣教師たちがマカオに持っていった。

[1995年10月4日 カトリック中央協議会発行]