第八話 浦上四番崩れ(岩国屋敷の牢)

第8話 浦上四番崩れ(岩国屋敷の牢)

2002年2月15日記

殉教といえば、すぐに拷問のことが頭に浮かぶものだが、その前に、日々の生活にはなんと言っても衣食住のことから語らなければならない。そこで、まず衣服のことだが、これまで着ていた衣服は収容と同時にはぎ取られ、これに変わって一枚の囚人服(両袖を白い布にてつくりその他は浅黄の布で仕立てたもの)を着せられた。これは脱走したときにすぐ目につき分かりやすくするためであった。

食については、1871年(明治3年)4月に藩庁より巡察使に回答した記録文書によると、定めにより一日米三合支給したことになっているが、実際には一日一合六?であった。しかし棄教者で外働きしていたものには米二合と副食物の代銀として三分九厘を支給していた。この他、外働き時間は朝六時から夕方六時迄の12時間労働であった。また、万一棄教者が亡くなった場合には仮埋葬し、神葬したと記録にある。

この棄教者達は、同朋兄弟の人達に食事を隠れて少しづつ分け与え助け合っていたのである。

眠るときの布団は名ばかりで、綿入れではなく、薄物で一人一枚与えられていた。夏には蚊が多く、そのときには棄教者のみに蚊帳を貸し出ししていたと記されている。

住まいは、第二陣配流の時、清水屋敷から岩国屋敷に移され、百二十八間の大長屋を二つに分け、その中央に牢番の詰め所を設け、左に男子、右に女子を収容し監視していたと記録にある。実際には拷問に拷問を重ねても屈服しないものには別の三尺牢に移し衣服もときには脱がし裸にしたり何日も一粒の飯さえあたえず飢渇し体が衰えたら初めの牢に帰し、養生さしてはまた日をあらためて引き出し拷問を繰り返していた。

この残酷な取扱いに牢番も見るに見兼ねて、一握りのむすび、一枚の着物を陰になり、日向になりして与えていたと後年の語り草になっている。調べているうちにこれが唯一の慰めであった。

このように書き記していると、ああそうだったのかと簡単におもいすごすものだが、身体を拭くこともできず、一日僅かの命綱のご飯、寝るにも住まいとて思うようにならない日々の生活は堪えられない苦しみの日々だったに違いない。

「はっきりいっておく、キリストの弟子だという理由であなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は必ずその報いを受ける」。(マルコ 9:41)

次回は拷問の苦練について

参考文献:異教徒御預り一件(県文書館蔵)
「大萩史話」(山本勉弥著)
長門公教史
露草キリシタン史跡研究会