第七話 浦上四番崩れ(博多から長州へ)

第7話 浦上四番崩れ(博多から長州へ)

2002年1月15日記   

現代では地球温暖化といわれているが、今から百年前いや五十年前までは、寒さ厳しく、玄海響灘の風雪は淅々として皮膚を破り寒気漂として骨身に徹していた。その最中の一月、長崎出港の折りも時化のため引き返すこと二度三度の末、配流となったこの第二陣は老人、婦女、幼児達だけであった。船中は生きた心地せず寒さと飢えとの戦いに一月の十二日博多港に着いた。理由は、長州の会津征伐という止む無い出来事で、記録によると町外れの小山の谷合いに一つの寺があり急遽内部を牢屋に衣替えし、三、四尺位の極めて小さな入り口を二ヶ所を設け、男、女と区別して監禁されたと神父になられた岩永源次郎さんが八才の時の記憶をもとに語られていたとある。そこでの牢役人は人間扱いせず、一疋 二疋と数え、獣のごとく扱い、履いてきた草鞋も脱がせ素足となり牢に入れられたと。

天の道理に照らされた信者の信仰は、如何なる迫害にも負けない。悪魔には必ず勝つ。信仰は世の終りまで、世界の果てまで決して消え去るものではないと、心に固く涙したことと思う。

着いた日は、急なこととて夜の眠るのに一杯の水とてなく、いつしか深い眠りについた。勿論夜具はなく、側にあった藁むしろを集め、回りを囲み寒さをしのいだものの、雪嵐は容赦なく吹き、肌は針を刺したように痛く、歯はガタガタ震え、朝の食事をと夢見ながらの仮寝。牢役人が朝食を持ってきたときの喜びはひとしおであったと思う。それも御飯小盛と梅干し一ケと白湯だけ、そこで腹を満たすため、おむすびにして飢えと斗った・・・と。

明治三年の冬は四十年振りの大雪だったと記録にある。老いた人の涙、幼児の泣き声、あちこちの隅から聞こえてきて、それは苦しみの世界だったに違いない。叱ることもできず、かといって食するものもなく、親子とともに涙、涙に暮れ、祈ることと寝むることだけが唯一の安らぎであったと思われる。寒さは空腹よりつらい。そんな日々の中いつしか春となり寒気も柔らぎ、草木も芽生え緑の色も増し、野山には土筆がとれはじめたころ土地の人はキリシタンとはどんな人かと、わざわざ見にくる人も多かったが、人の心は様々で、ののしる人もあれば、あわれみを感じる人もおり、土筆をたずさえて差し入れしてくれる人も案外多かったと、後に語りつがれている。そこが博多人情といわれる由緑かもしれない。

苦しみの試練もこれまでと思っていた矢先、役人がきて全員呼び出され、とうとう殉教の日かと心に決めて並んでいると三人の役人が大きな声で「今日長州に引き渡す」と。七艘の和船で萩へと港を出たものの幼子の命は寒さと飢えと船酔いのため船中にて二人帰天。”四月二十二日、辻の常蔵の後家かねの娘でん(八才)””四月二十四日、同じく、やす(八才)”。途中、下関彦島の福浦に埋葬し、また四月二十七日、船中で山中の嘉四右エ門の母とめ(六十六才)帰天。豊浦の特牛浦に立ち寄り埋葬する。涙の止まらない四月二十八日に萩に着いたのである。

「信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である。律法によっては誰も神の面前で義とされない。なぜなら正しい者は信仰によって生きるからです。」(ガラテヤ3章7、11)

参考文献
日本キリシタン殉教史
長門公教史
露草キリシタン史研究会