第五話 浦上四番崩れ(第一陣流配)

第5話 浦上四番崩れ(第一陣流配)

2001年11月15日記

1650年前の大博士テルツリアンの言葉に「殉教者の血は奉尊人の種なり」とある。一粒坪の米をそのままにしておけば、そのままであるが土に埋めて水をやれば芽を出してみのる。ということと同様に浦上の殉教者の方がこの萩の地に蒔かれた種は大きい。浦上では俗にいう「かくれキリシタン」として長い長い禁教令の間、教えを守り続けていたが、慶応三年三月、浦上の信者60余名(一説では85名)不意に捕らえられ監獄に入れられ、これを機に次々と弾圧が始まり、明けて慶応四年(明治元年)二月、明治政府九州鎮撫総督として長崎に着任した沢宣嘉(萩に在住したことあり今の旧女子短大後方の山手)が大阪の行在所駐在の井上薫と打ち合わせし4月12日大阪をたった木戸孝充は途中故郷萩に立ち寄り、藩政改革に従事し5月11日に長崎に着き、翌13日14日には沢宣嘉等と協議し、キリシタン逮捕者124人を、山口藩に66人、津和野藩に28人、福山に30人の配流を決め、山口藩配流66人は即日、加賀の国の蒸気船で下関彦島福浦港についた。

これを受けた山口藩は陸路を通り萩に着き、一旦大島に収容したと史実にあるが、これは羽島のことではないかと思われる。

そこには殉教した増太郎(益太郎?)の墓がある。収容小屋には教論係りとして小野石斉をはじめ8月に尾古主計(防府天満宮詞官)潮見清鞆(室積の早長八幡宮詞官)の助力を得て神道を説き棄教を迫った。棄教したのは20人にものぼったと記録されているが、本人の意思ではなかったのではないかと思われる。後日小野石斉が明治二年6月16日に杉民治に宛てた書簡の中で「小生はなし易き節之儀にて骨折りしらべものになり不申候」とあり、棄教は容易なものではなかったと記している。その中の2人のリーダ格の甚平(27才)元助(39才)は脱走している。前にも記したが羽島から萩は最近く大島から では困難と思われる。

こうして四番崩れの第一陣の時の道が始まったのである。

その道は地固めの上だけにあるのではなく、想像上の道、心理的な道全てが過ぎて行った大道なのに、なやみや悲しみの草花が今咲いている。

「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはならない。なぜ なら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れるものを皆、鞭打たれるからである。」およそ鍛錬という ものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、のですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」とある。

聖パウロのヘブライ人への手紙 12:5−6;11

参考資料
毛利家文書 木戸孝充日記
萩市史 公教史
露草会(史後研究保存グールプ)

次回は第二陣の配流について