第三話 切支丹巡礼の譜

第3話 切支丹巡礼の譜
故・ガルシア・ホアン(山口キリシタン資料館元館長)

2002年12月15日記
「切支丹巡礼の譜」の発刊(昭和56)にあたり、山口とキリスト教の関係を、歴史のページを繰りながらたどってみました。(…)

毛利輝元は関ヶ原の合戦後、周防・長門だけを領有することが許されて、山口に住むことになりました。山口には養子の秀元のおかげで宣教師もいたし、輝元の側近にも僅かながらキリシタンの重臣もいました。当時輝元は46歳で、亡くなったときのシャビエル(ザビエル)と同年齢でありました。シャビエルの心には慈しみが溢れていましたが、輝元にはキリシタンに対する憎しみばかりで、1602年(慶長7年)10月中旬以前に宣教師の終局的な放遂をすすめ、その悲惨な状態は明治維新のときまで続いたのです。惨めたらしい迫害の扉は1605年(慶長10年)八月に開きました。熊谷豊前守は萩で、琵琶法師のダミアノは山口の一本松で処刑され、あたかも彼等はキリシタン殉教者の長い列の先頭を行く感がありました。

信徒の逃散は1557年ごろから既に始まっていました。山口から逃避した信徒の数はおそらく1400人以上であったと思われます。彼等は集団で逃散したのではなくて、山口を囲む山々にひっそりと隠れたり、周辺の紫福、阿川、日置、殿居、長府、岩国、小郡などの地主のもとに安全な住居を見つけたりしました。またかなりの人は周防・長門の国境を超えて石見、伯耆、因幡、美作、備後などに定住しました。古文書によると、山口のキリシタンは前述の地方の他に、九州の北半分に散って根をおろしたことがわかります。熊谷元直とダミアノの殉教を合図に死刑の執行が続き、信徒は更に潜伏していきました。広島や小倉に住んでいた宣教師たちは、密かに山口の500人ぐらいの信者を訪れ慰めていたし、こうした迫害の最中でさえキリスト教に入信した人は決して少なくありませんでした。

今日、周防・長門(山口県)の全地方には、16〜17世紀の隠れキリシタンの遺物が多数残っています。例えば、ザビエル、トレス、フェルナンデスを護った内藤奥盛の墓、小早川陸景夫妻(その息子がキリシタン)の墓、熱心な信者であった毛利秀包と妻の大友マジエンシアの墓、毛利の家臣長岡重良左衛門、天野五郎右衛門、その他数え切れないほどの無名の一般信徒の墓があちこち残っています。

さて、沢本良秋氏が心をこめて準備された(…)この本を手にする今日のカトリック信徒は、自分たちのルーツを探すことができるし、他の方々は日本においてキリスト教は明治時代に伝来し宣教されたものではなく、萩焼が造られ始めた以前からその教えは私たち先祖の心の中に深く根を下ろしていて、血を流すほど忠実に信仰を守ったことがわかるでしょう。(…)

ガルシア・ホアン神父