第一話 萩殉教者記念公園

第1話 萩の殉教者記念公園

2001年10月15日記

三角州の街。!萩! 教会から約4キロ、武家風商家が立ち並び、5月中旬から6月上旬には夏みかんの薫り漂う赤土の土塀がつづく。すると眼前に指月山が見え、その麗しいから約300メートル海に面した近くに、榎の大木が枝を広げた場所がある。そこが殉教者記念公園である。中央に「奉敬致死之信士於天主之尊前」と大書した石碑がある。

これは当教会初代ビリオン神父が津和野の信者に頼み刻まれたものである。「信仰のために亡くなった信者は神の前に貴い」。という意味である。

1867年(慶応三年)肥前の国、浦上村(現在の長崎市)で死者をキリスト教式に埋葬することが続いた。そこで奉行所の調べとなり、三千数百人の隠れ切利支丹がいることが分かり、主だった68人が捕らえられた。いわゆる浦上4番崩れの始まりである。

幕府に変わり政権を握った明治政府は神道を国教とし、キリスト教を邪教として禁じ、キリスト教弾圧に踏み切ったのである。

浦上で見つかった約3400人は強制的に改宗させるため、二十藩に流した。そのうち萩には2回にわたり約3百人が送られてきた。萩では酷い拷問が行なわれた。そのなかの一つに、「ツルの寒ざらし」というのがある。

22才になったツルは腰しまき一枚にされて冬の戸外の石の上に正座させられ、一日中食事を与えられなかった、冬のこととて六日目に大雪が降った。ツルの姿が見えない。降り積もった雪で一面真っ白、その上に黒い物のがある、良く見るとツルの頭髪だったと、後世の老人たちは語り伝えている。

1873年(明治6年)禁制が解かれた。その間30人以上の人が殉教されたのである。

今のキリシタン記念公園は1891年(明治22年)拷問のあった岩国藩の清水屋敷の一角にできたのである。これは初代萩教会のビリオン神父の 尽力によるものである。

「殉教者を歴史のなかに埋もれさせたくない、信仰の自由という喜びは殉教者のお陰である」。と萩にはじめて教会を建てられた。

社会の秩序を乱さないかぎりという条件つきで信教の自由が認められたのは1891年(明治22年)である。その後、当殉教記念公園は2回にわたり修復、整備をした。その際、殉教碑の下から約2メートルはどの丸い大きな石が6つでてきた、これを十字に並べ組み直し記念碑の下に安置している。